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南部氏ゆかりの地

南部氏の起こりと奥州征伐

南部三郎光行の画像

本町は南部氏発祥の地であり、城山を中心として歴史的遺産が広がっています。
南部氏は、甲斐源氏の祖新羅三郎義光公の後裔で、加賀美次郎遠光公の三男三郎光行公がこの地を領して南部の地名を姓としたことに始まります。
光行公は源頼朝公に仕え、文治5年の奥州藤原氏の討伐に戦功があり陸奥の国糠部の地”現在の青森県、岩手県の一部”を与えられ、子孫は奥州に移り南部藩として明治に至るまで永く栄えました。

瑞雲山浄光寺

南部氏供養塔の様子

臨済宗妙心寺派で山号を瑞雲山といい、本尊は阿弥陀如来です。建物は慶長16年(1611年)に全焼しているので創立等は不詳ですが、甲斐国志には「黒印四石三斗、寺内三百坪、山林アリ、寺記ニ伝フ、開山ハ大覚禅師」とあります。

大覚禅師は中国南宋からの帰化僧、蘭渓道隆で臨済禅を天下にひろめるために大志を抱いて寛元4年(1246年)に日本に渡り、時の執権北条時頼に請われて鎌倉に建長寺を創建し開山となった人で、甲斐国には文永9年(1272年)と建治3年(1277年)の二度にわたり入峡しているので、浄光寺の創建もほぼその時期と推定されます。
創建当事は建長寺の末寺でしたが、元禄年間逢宕和尚の代に京都妙心寺の末寺となりました。

国志ではさらに「塩沢薬師堂ヲ攝ス、霊像ト云ヒ伝フ、慶安二年(1649年)6月23日、松本三太夫御代官寺社奉行へ書出ノ印章ヲ蔵ム」とあります。
なお、裏山中腹にあった南部氏一族の墓石群といわれる五輪、宝篋印塔は昭和41年の台風により埋没したため、昭和57年南部氏供養塔建立にあたり発掘し、その一部を現在地に移転しました。

延寿山妙浄寺

妙浄寺は当初、大日山妙楽寺と称し、元は真言宗でしたが、日蓮上人が身延へ入山する際即ち文永11年(1274年)5月16日この寺に一泊し、従持大輪法印は日蓮に帰依して改宗し日寿と改名したといいます。このため、甲州弘教の最初の霊場として古来、身延山法主入山の時は立ち寄るを例としました。
この寺は南部氏がこの地を領していた時代の菩提寺であり、寺紋に「向鶴の紋」を使用しています。

境内に「花釣瓶の井」という小さな井戸があります。言い伝えによると、日蓮はこの井戸水で身を清め、師匠道善上人の命日だったので読経していたところへ、村人で瘧を患っているものが草花を持ってきて加持をしていただきたいという。日蓮はその花を井戸の釣瓶に挿して祈ったところ病は忽ちなおったので、花釣瓶の井といわれるようになったとのことです。

本堂の裏手には八幡屋敷といわれるところがあります。ここには昔、八幡神社があり、南部家二代実光公により承久2年(1220年)奥州三戸に御神体を移し、現在は八戸市の櫛引八幡社になっているといわれています。

妙浄寺の正面の様子

妙浄寺正面

花釣瓶の井の様子

花釣瓶の井

新羅神社

新羅神社の様子

南部領主南部三郎光行公が、甲斐源氏の祖新羅三郎義光公の霊廟として建久年中に建立し、一門の守護神としたものです。
その後、南部茂時、元時相次いで神詞を奏し、累代祭祀を続けてきましたが、維新後社殿は荒廃し、祭祀は中断しました。
現在は復活して例祭を10月にとり行っています。

南部氏館跡

館跡に残る古井戸の様子

現在は井戸だけがわずかに昔を偲ばせています。享保時代の記録によると、「屋敷は東西一丁余、南北四十間、土塁、泉水、堀があったが今は埋められ窪地になっている。北方には差し渡し七尺の掘り抜き井戸が残り云々」とあります。
南部三郎光行の子等は第三子の実長を波木井に残して他は奥州に移ったので、この館がいつまで使われたのか定がではありません。

内船八幡神社

内船八幡神社の様子

この八幡神社は平安時代末期、京都石清水八幡宮より御霊代誉田別命(応神天皇)の分霊を裏山大段山頂に祀り、八幡宮の神殿と同じく中殿、相殿を建立し、遷座奉齊した建創の古社であり、甲斐国志、甲斐国社記に記載された由緒ある神社です。

お問い合わせ先

南部町役場 南部町教育委員会生涯学習課
〒409-2192 山梨県南巨摩郡南部町内船4473-1
TEL:0556-64-3111
(FAX:0556-64-3116)