歴史

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富士川舟運

富士川は「川丈十八里」といわれ、南部は鰍沢(かじかざわ)へ九里、岩渕へ九里の中継地点に位置し、富士川舟運上の要地として栄えてきました。
富士川に船が通ずるようになったのは、慶長12年(1607年)、角倉了似(京都の人 1553年~1614年)が富士川通舟の開さくを行ってからのことです。

舟運の役割は甲斐国中の御回米を川下げすることが第一でしたが、商業用の物資の運輸と一般旅人の乗船にも大いに利用されました。なかでも甲州・信州の塩の移入は重要で「上がり荷」として扱われ、「四人立ち」で溯航しました。「四人立ち」とは一人が先、一人が舵をとり、二人は岸を歩きながら曳く方法です。塩以外の移入品としては塩魚、砂糖、瀬戸物、綿糸・綿布、琉球表等があり、移出品としては米、薪、生糸類等が南部を中継地として鰍沢およびび岩渕に運ばれ、これら南部発着の荷は全部回船問屋(回漕店)を通して行われました。

舟は底が平板で見た目が薄いことから「笹船」「高瀬船」ともいわれ、毎朝十五艘、多い日には30~40艘が上下し、南部の待ち船は約30艘、船主は20人位であったといわれています。乗船の場合、定員は15人までとされ、南部の河原には数軒の掛茶屋が出て、名物のあんころ餅、四角寿司、煮しめ、煮魚等が売られて、船寄せの松の旅情とともに風情がありました。

日本三大急流の一つである富士川には難所が多く、老瀬岩、船取岩の近くには今も遭難者の供養塔が当時のなまなましい状況を伝えています。
「入鉄砲に出女」で知られる通船の取り締まりは、十島の口留番所に置かれていましたが、明治4年5月に閉鎖され、やがて昭和3年3月、鉄道身延線の全線開通とともに、華やかだった舟運の時代は終わりました。

舟取岩

水難者供養塔

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